第三章

 

   ヤンチャな女親分になる

 

 学年が変わり、気が付いたら、わたしは活発なヤンチャな女の子

になっていた。いじめられて小さくなっている子を助けたり、男の子

とやりあったり、先生にひどく反抗したり、

 

授業が始まっても、教室に入らず、廊下に尻餅ついて座り込んで

いたり、  ちょっと世話のやける不良っぽい娘・・・でもあった。

 

 そのころには、かきつばたの女王・・・のことなんか、

眼中になかった、 というより、教室が離れていて、会うことも

なかったし、  毎日がじぶんの関心事に夢中で、わたし自身の

なかで、投書事件の影もなかった。

思い出すこともなかった。

 

 

 後年、卒業後、バス停に立っているTを見掛けたとき、

わたしの胸の底のあたりで、  ズン!  なにか 疼いた

瞬間があった。  が、それだけ、である。

 

 

 

 

        忙しい中三

       

仲間外れにされて、しょんぼりしていたカズコを救い、

隣の組で小学以来の仲良し、体のデカイ迫力のあるシイちゃんと

三人、大抵いつも一緒に居た。

 

 クラスのどっちかというと、ハミダシ系のヤンチャな男子とも

よく気が合って、男子の輪の中に女子ひとりまじって騒いだりしていた。

女子より男子の友だちのほうが多く、その傾向はずっと続き、

今でも賀状などは男性のほうが多い。笑 

 

同じ組のイッ君とは家も近かったので、時々一緒に出歩いた。

ヤクザ組長のオジサンのいるイッ君と、商店街の縄張り内の

パチンコ屋にも出入りした。通りを歩いていると、まわりの若いモンが、
イッ君を見ると
散らばって消えていったり。 本人はそれらを嫌がっては
いる
ようだったが。

 

 

 

一方、遊び回っていても、本を読み、詩や文を書く文学少女で

あることは変わらなかった。もう一人の文学少女ナミとはブンガク

やジンセイのことなど語り合ったりした。

 

わたしの友だちには、マジメな群と不良っぽい群、 両極端があり、

丁度その真ん中に居た・・・という感じだったろうか、

 徒党は組まなかった。マジメも不良ッぽいのも、どっちがどっち、

というのではなく、常に “自由に、自分は自分のまま” でいた・・・。

 

そうして遊びまわっているうちに、シイとカズコの二人が急速に

グレていった。

当時テレビ塔下に集まっていた“カミナリ族” 今でいう暴走族の

仲間に引き入れられ、本物の不良になってしまい、学校に出なくなり、

家出を繰り返したりした。

 

 帰ってこないカズコを街まで捜しに行ったり、

合間にイッ君たちとも遊びに出掛けたり、

学校で、文学少女ナミの、S先生とのことの悩みを聞いたり、

 

まこと、わたしの中三時代は慌ただしいばかりで、勉強するヒマも

ない、成績は下がる一方であった。

 

 

  

    そして 卒業 

 

卒業して、数十年後、同窓会の案内が来た。

 

グレてしまって以後、波乱万丈の人生を辿り、それでも無事

ケッコンして遠くで暮らしているシイもカズコもやってくるという、

 

 数十年ぶりに懐かしい友に会える・・・。

 

 

      

 

 

 ***ここまで書いて、少し記憶違いの箇所もあるかもしれない、

と気が付いた。 二章 *軍隊か・・の項、 始業前に強いられた

動けない姿勢、 ・・・あれは小学校でのことだったかも・・・

小学後半と中学前半と 記憶がごっちゃになってるかもしれない、

 

 

中三の時の 

・・・ 始業時間が始まっても、廊下に座りこんで、動かなかった・・・

 との、落差がありすぎる?!

 

 

***この作品は

遥か遠く 過ぎたことを題材の “創作エッセイ” であること。

フイクションとして 読んで頂くよう、  あらためてお願いです。

 

  

***さらに この章の 追記

 

 

暴走族との出遭い

これも書かねば。

 

 テレビ塔下には 少女三人で出掛けたのだ。 

オートバイの傍らにヘルメットを持った少年がいて、声を掛けてきた。

 

 見た目、少しもヤサグレた印象はなく、少年の面ざしの残る

笑顔で、ごく普通に、とりとめないことを喋りあった。

 

 帰り際、  また来いよ、  オレたちも来るから、

 

 わたしは 本気にせず、気にもせず、

けど、 シイとカズコ二人は翌週、テレビ塔下に出掛けたのだった、

 

 当初の少年だけでなく、もっと先輩やら凄いのやら、たくさん、

集まってきた、らしい。

 ボスみたいなのも居て、二人の少女がその仲間になってしまうのに、

さほど時間はかからなかった。

 

 

 カズコのお母さんが、シイのことを恨んだ。

温順だった娘、カズコをわるい仲間に引っ張ったのは、シイだ、

シイのせいで、カズコは札付きの不良になってしまった・・・


  シイには、ほかに不良っぽい友だちも多数いて、わたしとカズコは
その仲間たちとも出会いはじめていたのだ。

 お父さんが肺結核を患い入院したきり、仲居をしながら女手

一つでカズコらこどもたちを育てていたおばさん、

 

 すっかりグレてしまったカズコが家出をするたび、必死で

捜しまわり、嘆き怒った、おばさん、

 

カズコは帰ってもひとりの留守番ばかりで、寂しかったんだ

と思う。グレてからは、キビシイばかりのお母さんを憎んだりも

していた・・・。

 

でも おばさん、  わるいのは シイちゃんだけじゃない、

きっかけ は  わたし かもしれない、  

 

 もう亡くなってしまわれたけれど

おばさん   ゴメンナサイ!!

 

 

     続く

 

    

      秋雲

 

 日中の日差しはまだ暑いが 雲が 秋の形 になってきた

 

 雨の降ったあと 涼しい というより寒い・・くらいの朝

渡りの雁が 川の上を飛んでいった 

Vのかたちになって  次から次へ  飛んできては 去っていく

  

 秋空の下を Vになって 雁が飛んでいく さまは うつくしい

 

 映画の ラストシーン  を  見ているようで

 

飛ぶ雁たちが  いとおしく おもえる

 

ぶじ  飛んでいくんだよ~~

  

 

 

 

憶えていますか?

 

        第二章

 

 

        かきつばたの女王

 

 美人で頭が良くて、クラス女子みんなの憬れであったT、

そんな彼女への、誹謗中傷の投書があり、教室内は騒然と

した空気になった。

 

 投書されたTの、取り巻き以外には わたししかいない・・

のだから、投書のヌシとしてとうぜん、疑われる、ことは思った、 

・・・けど、Tを信じていた。

 

他の18人に疑われたとしても、Tひとりが信じていてくれる

ならそれでいい、  そう 思って過ごしていた。

 

 わたしは徒党を組むことをよしとしない。群れることがきらい、

集団、軍団がきらい・・・。

その時すでに 本を読み、詩や文を書く“コドクな文学少女”  

であったのだ。

 

Tの取り巻き軍団に入ってなくても、彼女を決して敬遠していた

わけではない。それどころか“かきつばた”以来、尊敬に値する

ひとと認めていた。

 

 

小6 以来の“ともだち”だから、Tはわたしのことを

知っていてくれる、  

 

わたしが悪口の投書人だなんて、思ってるわけない・・・!

 

 

 

 

         スケープゴート

 

数日かが過ぎて、わたし自身の中では投書事件は過去のことに

なりつつあった、そんな時、  

 

Tが凄い形相でやってきた、

  

―あんなこと書いたの、あんたでしょ、ヒドイ、

覚えてなさいよっ!!―

 

 それだけ一気に言うと、スカートひるがえして、去っていった。 

 

 

 

 

わたしの顔はたぶん、呆気に取られ、ぼんやり、していたと

さえ思う。

 

 Tの荒げた声を聞いたのも、怒りに満ちた凄い形相を見たのも

初めてだった。

 

 わたしの知るTではなかった。

 

彼女は変わってしまった・・・

 

取り巻き連中に囲まれ、中心の頂点に立たされているあいだに、

いつのまにか、君臨が身に付き慢心してしまったのだろうか、

それに、Tは小学以来の旧友のわたしのことなど忘れてしまって

いる・・・、

 

 それが何より、痛手だった、ショックだった、哀しかった、

 

 

 

さぁ、それから 以降、クラスの教室の中でのわたしの居場所は

なくなった。周囲の女子からの攻撃、嫌がらせ、こまかな出来事は

忘れてしまったが、

相手にされない、孤立感、  それは学年が終わるまでつづいた。

 

 

自ら選んだ“ひとり” と 他から絶対の差別をふくむ“ひとり”

とは次元が異なってくる。

 

 

 後のわたしなら きっぱり反動したはず。投書の筆跡とわたしの

字を見てもらえば、あきらかに違いははっきり判明して、

犯人でないことを証明することも出来たはず。

 

 だけど、当時の気弱なわたしに、出来ることはなかった、

悔しくても泣き寝入りするしか方法がなかった。

 

 

    


         そこは“軍隊”か?!

 

 これだけ記憶があって、ふしぎなことに、魔女狩りのような

投書事件のあったのが、一年の時だったのか二年の時だったのか、

はっきりしない、

 当時のクラスでは投書箱だけでなく、他にも悪しき慣習があった。

 

 授業開始のチャイムが鳴ると、全員、席に付き、姿勢を正し、

黒板のある前方を向く、先生が入ってくるまでその正しい姿勢を

続けねばならない、少しでも喋ったり横を向いたりしようものなら

学級委員のチョークで 黒番の右下に 名前を書かれる。  

 

 窮屈な姿勢で、いつまでこんな動けないの、早く先生、来てぇ~、

つい戸口を見ると、  ハイ、そこ! 前に立つ監視兵の学級委員に  

名前を書かれる・・・。  

教室に入ってきた教師はそれら、名前を眺める。

 

 

今思えば、なんと、アホくさ!

 

 いつの時代か?・・・、れっきと戦後世代ですぅ、 

投書箱にしても並列姿勢?にしても、前時代のこの悪しき慣習、

考え付いたの   ダレなんや、  ホンマ、 シバくぜ!!

 

 悪口を書いて、投書箱に入れた あなた、

名も明かさず、ただ非難するだけじゃ、真意はなにも伝わらない、

ふたりの同級生女子の心を傷つけた   あなた、

  

  ・・・ その後の 人生は  どうなの??

 

  

 

わたしの一、二年のあいだに遭った出来事である。

 ちなみに 一年の担任は H・ラージ先生 二年はW・青タン先生

 

 

       第三章に続く



             序章
   

        同
窓会の案内状

 

 昔、旧友をモデルにした掌編を書いた。

それをブログに リニューアルして書き直すつもりになっていた

・・・ちょうどそんな時にトツゼン、同窓会の案内が舞いこんできた。

 

 

 第一回目以降、5年ごとに開催ということだった。

 その後、数回、欠席することのほうが多かったが、三年前の

折に、久々に出席した。

 

今回、五年後の予定より早めの開催であるようだ。

案内には、

“一年のサイクルが年をとるごとに短く感じる今日この頃です”

と書いてある。

 

 

 創作・掌編は、==フイクションです、該当者は有りません

詮索無用に!==

と銘うったところで、また滅茶古い時代の内容であるにせよ、

同級の誰かの目に入れば、好奇心から詮索、割りだしたりされる

かもしれない、   それは 作者として本意ではない。

 

 

 

中学の同級生に向けての“ものがたり”の構想をはじめた矢先、

同窓会案内が届く・・・って、 ナニ、 この  タイミング!!

ちょっと驚いている。

 


   

         第一章   

     

     憶えてますか? 同級生たちへ

 

 

        投書箱の怪

 

 旧友の創作は延期することにして、別に思い出されたことがある。

これまで、数十年封印されていた、記憶の底の底に埋もれていた、

こんな事柄。

 

 

 当時のクラスの教室には投書箱が、設置された。

イッタイ ダレが発案したのか、他のクラスにもそれはあったのか、

担任は知っていたのか、

 

 その辺のことは不明である。

 

 無記名での投書を、郵便箱みたいな箱に入れるのである、

まだ たかだか中学に入って間もない年ごろで、建設的な意見

など出ようもなく、無記名であるからして、それはほとんど、

個人名指しの誹謗・中傷の内容が占めていた・・・ようだ。

 

 わたし自身は幼い意識ながら、無記名でひとの悪口書くなんて、

卑怯だ、気になることがあるなら本人に直接言えばいい・・・と

いう考えで、投書箱とは無縁に、内心苦々しくさえ感じていた、

・・・、のではあるが、いかんせん、ひとりの弱者の意見など

通る状況でもなく、立場でもなく。

 

 

  

 

知ってますか? 投書の行方を

          ひとりの女の子の その後の悲哀を

 

 わたしは小学・中学途中までは とてもおとなしい、人見知りの

つよい、か弱い女の子だった、

 と言うと、中学後半からしか知らない友人たちは、

へっ!  だれが か弱いって?!   ワツハハハ・・・

カラカラ、笑うであろう。 

 小学から中学一、二年の半ばまでしか知らない同級生たちは

うんうん、・・・って頷くかもしれない。

 

 

 当時のクラスには 頭が良くて、美人で、背が高くて、何を

取ってもずば抜けたTが居た、まわりの女子の憧れでもある。

T自身はどちらかといえば、控え目なタイプで進んで女王気取り

するようなひとではなかったと思う。

 

 でも、まわりの女子たちは、Tに群がり、いっせいに一緒に

くっついて行動するようになっていた、女子が20名居たとすると

18名がTの傘下、いや子分衆であった。

 18人以外の1名は T当人、残りの1名は わたし。

 

 Tのことはキライではなかった。小学6年の時も同級で、

Kちゃん、T、わたし、三人で一緒に帰ったりしたし、

Kちゃんとふたりで、Tの家に遊びに行ったりもしている。

 

 家へ呼びに行って、  

 

なに してた?  と聞くと、

  

― かきつばた の 花の 観察をしてた ―  

と 言う。

 

Kちゃんとわたしが遊びほうけてるあいだにも、

・・・花のこと調べてるんだ、アタマのいい人って違うなぁ!・・・、

子どもながら 感嘆したのだった。

 

 

 

ある日の投書箱の中に  Tへの誹謗の意味の投書が入っていた。

   威張っている、とか いい気になってる、とか

そんな内容ではなかったか。 とにかくその辺はよく覚えていない。

 

投書が読まれた時、クラスの誰もがみんな固まった印象で、

Tは下を向いたままだった・・・。

 

 イッタイだれが書いたの?・・・ 女子の誰もが考えただろう、

なにせ、18人が取り巻き連中なのである。

 

 それでも わたしはノー天気に その後、じぶんの身に襲ってくる

恐ろしい疑惑を被る不安も心配もしていなかった。

 

               第二章へ  続く

    

    



             健さん主演・「あなたへ」

 

 

 今頃、テレビ放映でみた「映画」の所感です。

 

 普段、まず映画を見に行くことはありません、“ひきこもり”

に近い暮らしをしていて、わざわざ映画館に出掛けてまで見たい

映画はない・・・ということでもある。

 

 でもたまに、テレビの放映では見ることもある、たまに、です。

 

 

 高倉健さん、おん年、81歳のよし。

この「あなたへ」が  健さん主演最後の映画になる?? とは

限らないけれど、大滝秀治さん演じるところ・・のような役柄で

あればともかく、81歳過ぎての主演作品、となると、どうなんだろう

・・・。

 

 

 白髪と皺は相応に増えた様子であるものの、お腹は出ていないし、

体型も変わってない、伝説・名優の高倉健さんそのもの、  健在なり。

 (別にとくにファン、だったわけでもないんですが。)

 

 ただ、やはり“年齢”・・は感じる。歩いている姿とか、目線、とか

“しんどくないですか”??・・・って、思えてしまう。

 (わたしが勝手にそう感じてるだけかもしれないです。)

 

 

    

妻の遺した手紙

 

 

 田中裕子さんも、相応にトシ取られて(あたりまえながら)、

なにしろ、映画見ないから、田中裕子さんの“途中”も知らない、


 劇中で「星めぐりの歌」を聴くとは思ってなかった・・、ご本人が

歌っている、と思うけど、これで、元歌手・・というのはちょっと 

ムリがありません??   ま、どーでもいいんですけどね。

 

 妻の遺した葉書には、 手描きの灯台の絵に添えて、

  


 遺骨を故郷の海に撒いてほしい、と書いてあった。

(***手紙の内容を再三書き直してます、どうも記憶がはっきりしないので。
 

 散骨のことだったと最初の記事に書き、後で 
 さようなら   の 一言だった??  と書き直したり。
記憶違い、曖昧な点はご容赦ください・・
***

 

 その願いを叶えるため、また、故郷の郵便局留めになっている

もう一通の手紙を受け取るために、手作りのキャンピングカーで、

富山から長崎の海辺まで1200Kの旅を続ける・・・という、

 

 道中、個性ある俳優を配して、それぞれのアクシデントやエピソード

を交え、車の旅をつづけるのだが、 ただ、ぼんやり、見ていたら、

いつのまにか ザ・エンドになっていた・・・

ということになりかねない・・、ことに重要なヤマもなく、ハデな伏線も

なく。

 

 途中の 風景が見どころ、なんでしょうね、

“竹田の子守歌”の舞台、竹田城跡の、天空の風景が素晴らしい!!

(ぜひ、行ってみたい!!と思った)

 

 

 健さんは車を走らせながら、海を見ながら、考え悩む。

 

 じぶんは妻の何だったんだろう

 妻は何を考えて暮らしていたんだろう

 

 真意をはかりかね、

骨を海に撒くことの迷い

 

 


 故郷の郵便局で受け取った手紙には たった一枚、灯台の絵の

描かれた葉書が入っていて、

 

  あ り が と う

 

 とだけ書いてあった。

 
  

 絵に描いてあるのと同じ 灯台を、海を、眺めながら立ち尽くす健さん。


 
 さようなら

 ありがとう

 


 二つのハガキ を 健さんは灯台と海に向かって、飛ばし放つ。 
 

 

 この映画は 大切な存在を亡くしたひとでないと、理解にくるしむ

内容ではなかろうか、  映像からは さしあたっての答えもなく、

観るひと それぞれが思いの丈でもって、感ずればよし・・・

とうぐあい・・・のような。

 

 

 愛するひとを亡くした、大事なひとを亡くした、  喪失感を

抱かえて、それでも 遺されたものは生きていく・・・、

生きていけばいいのだ  

じぶんどおりの生き方をしていけばいいのだ

 

 逝ってしまった、遺くした ひと に とらわれず

じぶんのまま 生きていけば いいのだ

 

***そんなふうに、感じとったのであるが・・・。 





 ・・・ 生きてていいのかな ・・・

 

いささか負い目を 背負って生きているわたしは この映画を見て、少し、
背の荷が軽くなったように思えたのだった。

 

     

    


      *** 暑い、です!

 

もう言い飽きたし、聞き飽きてるけど、  やっぱし暑い!

のです。  いいかげん、夏は懲りた!の 気分です。

 まだまだ 残暑はつづく模様でございます、 はぁ~、汗

 

 朝と夜だけ 動いて、暑い昼間は ひたすら  ノビテる。

 

 わたしの ブログ記、本年1月より 始めて、8か月になろう

としているところ、たいして 変わり映えせず、

多少  曲がり角にきてる 実感であります。

 

 

 


 

    八月―盆の子守唄

 

 

 

おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先きゃおらんと

  盆が早よくりゃ早よもどる 

 

       *

     

子守うたには 盆の詞がおおい

たいてい哀切な悲惨な(わけ)が込められている

 

由来やわけは さて置いて

こころに響くららばいであればそれでよい

そう おもいながら

 

なぜ  なぜに

この国の どこかの村で

いたいけな年ごろのわが子を 追うように

捨てるように余所へ出すのか

 

それほど むかしのことではない

今もどこかで 親が子を子が親を

悲惨な無惨なものがたりは ある

 

  なぜ 捨てる子を  なぜに 産んだ?

・・・ まっすぐな素朴な疑問符  

 

の声は じだいの錯綜にいつも消し去られ

届きはしない

 

*      

 

ただ楽しいだけではなかった子育てのころ

泣く子を背に

べらんだや扉の外を ゆきつもどりつ

くちずさんだ 子守うた

 

      

守もいやがる 盆から先にや

  雪も散らつくし 子も泣くし 

 

 

子らに聴かせるレコードに交じり

たった一度 たった一枚

じぶんのために求めた 小さな小さなレコード

哀切な調べと 透き通るような声

水に映った波紋が あわあわ あわ・・・  

胸のうちに ひろがっていって沁みこんでいくような

そんな子守唄

くりかえしくりかえし 聴いて暮らしてきた

 

過ぎた日のなつかしい子守唄

だれにも胸ふかくに ひっそり沈んでいるのではなかろうか

 

村では 盆過ぎるころにはじき寒さがやってきて

雪さえ散らつき

ちいさな手足は凍えて 背の赤子は泣くばかり 

 

まずしいじだいの親の家から出された子守りの子は

背中の赤子をゆすりながら泣きながら うたう

 

  

      *

 

盆がきたとて なにうれしかろ

  帷子はなし 帯はなし

 

 

  はよもゆきたや この在所越えて

  むこうに見えるは 親のうち   

 

     

***文中挿入歌

五木の子守唄・竹田の子守唄 


  
                                              DSCF5438(サイズ変更)




 


2013.08.14 蜻蛉 舞ふ
     トンボの群れ


 毎年 盆の頃から 川の上をトンボが飛び始める。

 今夏は八月に入ってすぐ、数は少ないが、飛び始めているのに 
気が付いた。


 川辺に暮らしはじめて、

 お盆過ぎる頃から、蜻蛉は 山の上から下りてくるのだ  ・・・
そう思っていた。

  お盆過ぎだよ~~    もうじき、  秋だよ~~~

 そういう目安にしていた。  自分勝手に。

 今年の夏は  暑すぎて、  トンボの生態も 変わったかなあ、

 調べてみて、水の中で育ったヤゴが、孵って、川の上を飛び始めるのだ ・・・
 

 と 知って、  自分のうかつさ  を 知った。笑




       ぶろぐ村の内訳?!

  久々にパソコンを開いたら、 ぶろぐ村の 村長さまからのメールが入っていた。

 いわく、  アンケート  実施 とのこと。

 どうしよう・・・、

 わたしゃ、 入会の折りの 村長さまからの いくつかの ”宿題” すら
ろくさま、まだ こなしていない、  どーにか、入会は出来た?模様・・では
あるが、まだ  実態も分かっていない、 まこと、ハンパな状態のまま、
である。



     ぶろぐ村の記事

 たまに ぶろぐ村の新着記事とか、覗いて見ると、

 このシニアの世代、 内実が分かる、というか、分かり易い。

 豆台風が来て 被害被るとかどーとか、  チビに パソコン占有されるとか
どーとか、   タイフーン去って、 ほっとするとか、   
ナニ?、ナンなんだ?!、この寂莫!!・・・     とか。

 我が家の  6歳のチビも これまで トーマスだの マリオだの、
ユーチューブとかの動画を見ていたが、 ここに来て、

 ただ 見てるだけじゃ  つまらな~い、  ゲーム やりた~い、

 と ゴネだした。 我が家のヌシは 不器っちょの見本・標本ノヨウナモノで

 パソコンゲーム?   ナンジャ、ソリャ・・・     

 だれも  出来やせぬ、

 チビは  最近 友だちの家を訪ねても、 女の子のうちで  ゲームも
無い・・となると     つまんな~い、  帰る!!

と のたまう とか。  ママは  青くなって  慌てる。

ゲームの出来る家にしか  遊びに行きたがらない、
1年生にして、 この様子。  
 
 この先、この子が ゲーム依存になりませぬよう・・・、ぶきっちょバーバは
祈ります。



  
      心で聴くララバイ

 子守歌 で検索してみると、歌詞の由来とか、訳とか  いろんなことが
出てくる。


   子守歌    調べが  心にひびき、  声が 胸に沁みこみ・・・
それで いい、     

 注釈とか 由来とか    そんなん  どーでもええねん、

 文献的に 必要ではあるかも知らんが、  わたしゃ的、には
どーってことないねん、

 哀切な調べで  澄み切った声で 心にひびく   子守歌が 好き。




 十兵衛せんせいのこと

 

 

白鳥山(はくちょうさん)こと・白鳥御陵の横の道をはさんで、

中学校がある。

 

 “じゅうべえ”・・と呼ばれる国語担当の先生がいた。

苗字は  柳生 と言う。

だから、十兵衛、って仇名がついたんだ・・・、単純にそう思っていた。

 

 

 卒業して数十年も経って、新聞の囲み記事に、

「柳生道場 指南、・・・柳生新陰流・・・」、とあり、

国語教師だったじゅうべえせんせい、見覚えのあるその人の写真が

載っていて、

 

 仰天した。

 

ほんものの  柳生流の子孫だったんだ・・・!!

 

 

 後で知ったのであるが、上級生や卒業生のあいだでは、子孫だ・・

そういう噂もあるにはあったらしい。

が、戦後生まれの我々が生徒だったころには、柳生十兵衛、だなんて

歴史上の人物か、時代劇映画の主役・剣豪?!  というくらいの認識

しかなく、もし、噂を聞いたとしても、だれも信じなかったと思う。

 

 

 新聞で知ってから、また長い歳月が過ぎている。

柳生延春 先生、  今もご息災かな・・・、

ネットで調べてみたら、数年前に亡くなられていた、88歳病没と

いうことだった。

 

 

   

     北の湖師匠の功徳

 

 北の湖さんの石碑が立つ山門をくぐれば、由緒あるお寺の森閑と

した境内である。そこの山のような崖のような登りになっている

杜が「御陵」なのである。

 寺と杜との関連はよくは知らない、そんなこと関係なく、考えも

及ばず、その杜の山や崖に登って遊びほうけていたのだから。

 **残念なことに、その後の伊勢湾台風禍や手入れやらで、昔の

うっそうと繁った「杜」の面影はなくなっている。

 

   

 

   なつばあちゃんの流儀

 

母は、信心深い人だった。(娘のわたしはその点、DNAは受け継が

なかったようで) 

元気なあいだは無論、“脊柱管狭窄症”からキセキ的に立ち直った

後も、そして施設に入る直前まで、お寺に参って手を合わせ、そのあと、

境内や御陵のまわり、中学の通学道など、落ち葉やごみを掃いていた。

 

 家の中は奇麗にしなくなっても、外の掃除には励んでいたのだ。

境内や、中学生たちが歩く道の落ち葉掃きはきっと、母の何よりの

気晴らしになっていたのだろう。

 中学校の教頭せんせいや中学生たちが母の家にお礼に伺って見えた。

 

お寺さんの当主も感謝して、地代を安くし、なつさんが住んでいる

あいだは 土地の撤収も待つてくれた・・・と聞いている。

 

 寺の当主の弟なる人は、うちの次女が通った大学の、仏教の教授でも

あった、現在はわからないが。

 

母の家、つまりわたしの生家跡は 今は寺所有の駐車場になっている。

まわり、どんどん そのような駐車場が広がっている。時節の都度、

熱田神宮参拝の車で 満車になる。 寺の経営はまず安泰ということ

のようであろうか。

 

 

 

 

  シンプルライフの裏には

 

 施設の母の持ち物の少なさは、長姉の尽力によるものである。

 

 呑んだくれで頑固で人間嫌いで役に立たない父、に代わって、

上の姉は“総領”として、母親と力合わせて家族の生活をささえて

きた。

 

 

現在、母の年金も貯金もすべて総領・姉が一存で仕切っている。

生家の取り壊しの際も、妹ふたりは何も聞かされておらず、

・・・壊して、もう無いから。 母には知らせないように・・。

と 後で言い渡されたのだった。

 

 

 つれあいと母親と、両方の世話をしながら、姉は長年突っ走って

きたのだ。

二人の妹は住居も少し遠方だし、仕事を持っていたり、絵を描いて

いたり、それぞれの事で手一杯だったし。

異議、モノ申す、・・・資格はない、と言えようか。

 

 

    

夏休み!

 

  長女んちの6歳、3歳のチビたちがやってくるようになると、

普段はいたって閑静な我が家は騒乱・錯乱状況と化す、いつも書いてる

けど・・

 パソコンも 6歳に占有される。

 

 なので、ここしばらくは  ブログ更新も変則式になります・・・

 

 

  

恥ずかしながら・パソコン歴何々年?!

 

 今年1月、どーにかこーにか、ブログを始めて、写真も無く詩と文

だけでつづけてきた。

旅に出た記事の時、風景や なつばあちゃんの姿とか、

あぁ~写真にして出せたらいいのになぁ・・・って、思うこともある。

 

 ずいぶん、昔からテレックスなど、キーは打ってきた。二度めに

勤めた職場は 外資系のコンピューター社でもある。

 ショールームや機械室には6畳くらいある大きなコンピューターが

数台も並んでいた。

 

 ワードで詩誌も作成した。パソコンになってフロッピー使用の頃

までは何とかこなしてきた。ビスタに買い替え、数年経って、わたし

もトシ取って・・・、技術の進化は  ザ・ストップ!

 

 デジカメ、買えないわけではない、マニュアル冊子 開いて、

写真の頁になると、目が点になり、アタマがぐるぐるまわり・・・、

 

 “にほんブログ村”をネットでみつけ、何とか入会(失敗を繰り返し)
までこぎ着けた、 村長さまから 何々・・次第・・、の指示を受け、

目こらしてみると、 ・・*+P‘<@@##:/.,○×・・

 またして アタマがくらくらっ めまいがしてきて、何がなんやら・・

わかりませぬ、できませぬ、

 

 これでまぁ、入会できなかったら  しゃーない!!

 

 

という、わたくし・PC・なさけない歴史の披露であります。

    

 

     ただいま、凹み中!!

 

 パソコンに関しては すべて独学でここまできた、身近に教えて

もらう人がいない、習えば?? って、何々年、キーを打ってきて、

今更・・・

 

 と、思ってきた。 最近、ぶろぐ村シニア世代 を見学するように

なって、  

・・・71才でパソコン習い、73才でブログをはじめました。

 という方の、写真入り素敵な記事をみつけるに到った。

 

  

わたしの腕前といったら・・、なにしてるんでしょう・・・?!

泣き!!

 

 

 

2013.08.07 母の生き方
     母は元気!


 昨日、なつさんの仕事・記事をブログに書いたあと、重い腰をあげて、母に会いに
出掛けた。

 
 ディルームで椅子に座ってテレビを見るでもなく、何するでもなく・・・・、 わたしの顔を
見るとニッコリ 
 
 

 
 いつ見ても、ちゃんと膝を揃えて、ちんまり座ってるなつさん、35、6キロ位
しかない小柄なカワイイおばあちゃん・・・である。
 スタッフさんにもよくお世話して頂いてて、感謝している。

 
 母の小さな手をにぎり、(施設に入るまでは、節くれだったごつごつの仕事の
手だった)
 
   じゃ、また来るね!
 

   おおきに、気をつけて帰るんだよ・・・
 


 暑いなか、片道1時間余掛かって、交通費も掛かって、 またすぐ折り返し帰る・・
だけの、さして用事もない訪問、だけど、  変わらず元気で、やさしい笑顔が見られ、  
ほっ! 安堵して嬉しくて、 帰るときの わたしの足取りは軽い。笑


     
    
     ひとり暮らす


 母は、父亡きあと、90歳過ぎるまで、独りで古家を守り、暮らした。
仲良しのご近所さんたちが、 「ねぇさまぁ、いりゃ~すか~?」  と、よく家に
訪ねてきた。
 土仕事が好きで、植え込みに花が絶えず、またあちこち、お寺参りや神社へ
出掛けたり。
 ひとりでも 日々それなりに楽しんで暮らしているようだった。 


 じょじょに、まわりの仲間が一人減り、二人減りして、次第に、だれも訪ねてこなく
なり、母の身辺が淋しくなっていく・・・
 草花が枯れ、部屋のそこかしこ、うっすら埃がたまり、冷蔵庫には同じ食材が
ぎっしり詰まっている・・・ その頃、すでに80歳後半になっていただろうか・・・。

 仕事を勤めながら病身の連れ合いの介護もしていた長女が、母の家から車で
十数分の所に住んでいて、時々、母の様子を見に寄っていた。

 
     ついに母倒る

 
 その姉が定年過ぎて、長く勤めていた仕事を辞めると、母のからだは急速に
弱って、どっと寝込むようになってしまった。 長姉を頼りにしていたから、安心
して気が緩んだのだ、と思う。
 脊柱管狭窄症、というややこしい重い関節痛の病名を受け、入院ともなり、 
揚句、もう年齢的にも完治はありません、とドクターから匙を投げられもし、
家に戻って寝たきり、になってしまった。
 
  


 

      再生
    
 来る日も来る日も寝込んだままで、わたしたち姉妹三人、可能なかぎり交代で、
実家に泊まりこみ、看病したのだった。  覚悟もした。

 
 
 しかし、 母は奇跡的に 蘇った。 起こして、車椅子で散歩に連れ出し、次は
杖で歩くようになり、そのうち、杖も嫌がり、支え無しで、じぶんで歩くようになった。

 
 
 けど、さすがにひとり暮らしは無理になった。91歳を越えていた。
母も交えて、話し合い、最初は  家がいい、どこも行きたくない・・
と言っていた母が、最終的には  すんなり  施設に入居してくれ、今に至って
いる。
 ひとり暮らしはもうできない、娘たちに迷惑もかけまい、・・・との、老いたひとの
観念の意思であったと思う。  
 実家に近い、下町の雰囲気の似た場所に新設の”老人ホーム”である。



      シンプルに生きる


 母の家には、娘三人が里帰りした時、持たせようと いろんな物を買い込み、
引出しや棚のなかは物が溢れかえっていた、衣類も布団類も 捨てられない
世代で、溜めて溜めて、 離れもあり、家ぜんたいがモノで溢れ、ふくらんでいた。

 それらすべてを置いて、 母は殆ど、身ひとつで施設に移っていった。


 他の入居者の部屋に比べても、母の持ち物は極端に少ない。
 
 買い換えた小さな仏壇と、数枚の衣類、着替え・・だけ。

 最近、長姉が 小さな仏壇も引き取っていって、今は父の位牌があるのみ。
花の水も替えなくなった・・ と、 姉からは 生花も持ってこないように・・
禁じられている。
衣類も何も持ちこんでこないように・・・とも。
 
 
 (上の姉は、母が残していった荷物や家具などの始末を、一存で単独で
片付けたのだ。
 妹たちはほとんど役に立っていない、  大変だったと思う。)


 

 シンプルなまっすぐな暮らし。
 母らしい、お仕舞いに向かっての、生き方。



     深秋や 生家壊され 消へゆけり

 一昨年の秋、母の家は無くなった。母には知らせていない。




 
     寺の持ち物って??

 ”白鳥山” はくちょうさん  とわたしたちの呼ぶ 古墳の敷地内だか横だか
に寺がある。

 その寺には 中学のわたしの一、二年、後輩が当代住職になっている。
先代の頃には 傾きかけ破れ寺であった、 が、  北の湖の所属する相撲部屋
が 巡業のあいだの宿先に 寺を借りるようになった頃から 持ち直して羽振りが
良くなりだした。

 あちこちの土地を撤収?し、駐車場に替えていった。
 我が家の生家も   寺の当主に   もともと寺のモノだから・・・と引き取られる
ことなったのだ。近隣には、 先代の傾きかけた時代に請われて、寺から土地を
買い取った家もあった。 うちの父にはその力が無く、 買えるようになった時に
は当代に代わっていて、取得を 頑強に拒否されて叶わなかった。

 
 かくて、建っている我が家の下の  土地は撤収となったのだった。


 お寺さん、  仏教って、 なにものも持たず・・・ではなかったですか?

 もともと お寺のもん・・・って、あちこち 住んでる者もいる家の土地を
サラにして、駐車場にする・・・いかにも  やりて坊さん やすな。

 寺の継続も困難な時代になり、大変なのは想像できるが、
町内の回覧で 檀家でもない家から寄付を募ってる・・・と困ってるひとの
投稿文も新聞に載っていた。

 大手メーカーも、バンクでさえ、潰れ、合併されたりする時代です、
こんな現世に  昔ながらの慣習とやらで、寄付で募って、お寺を維持して
いく・・・それも税金・免税措置の法に守られて・・・でもって。
時代オクレ    と言っては   罰あたり  なんですかね!!

 
 
 
 
2013.08.06 老いても働く

 

    なつさんの“仕事”

 

 

 目覚めて、床のなかから柱時計を見あげると、丁度

四時だった。

 

 いつもはそれより十数分前に起きて、四時には出掛ける

日課だ。今朝は少し寝過してしまった。あわてて起きて

身支度する。

 

 

外は まだ暗い。 星が点々と 冴えている。

 

 

 佐藤なつの自宅から歩いて、 十数分のところに、

そのビルはある。

 七十歳半ばのなつは、毎朝、ビルの掃除の仕事に通っている。

つれあいは以前に病没し、こどもたちは家庭をなして家を出て

いった。家族がいた長い間、着物の仕立てをして家計を助け、

近所の人たちから、“馬車ぐるまみたい・・・”と言われる位

クルクル働いてきた。

 

 

残された古家でひとり、年金暮らしの身である。働かない

でも、つつましく暮らしていけないことはないが、まだ

どうにか達者な躰である。

綺麗好きでこまめな なつに、世話をしてくれる人がいて、

数年前から、小さな会社の清掃係として働くようになった。

 

 

始業前の一、二時間ほど、ビルの内外を掃いて雑巾掛け

をし、ごみや灰皿の中の始末をするのが仕事である。

 

なにも朝の暗いうちから 起きて出掛けることもないのだが、

なつは、近隣の目を気にするのである。周囲に、こんな年で

働きに出ている人はいない。年は取っても、見栄というものが

ある。

誰にも気付かれない早朝のうちに勤めあげてしまおう・・・

 

 ・・・それに、朝早く起きて体を動かすのは、気持ちがいい。

 

 という、なつなりの 考えである。

 

 

 

 暗いが、通い慣れた道を歩いていく。

大通りにある役所の建物が見えてくると、もうすぐだ。

その先の角を曲がった裏通りにビルはある。

 

 と、不意に、耳をつんざく爆音、ヘッドライトが疾風の

ように迫ったきた。オートバイだ。それも一台や二台ではない、

後から後から、狂ったように連なってくる。暴走族だ。

 

 

 国道一号線の走るこの辺りは、暴走族の深夜の恰好の

遊び場なのだ。

 先頭を切ったバイクは、人けのない道に、なつの姿を

見止めると、からかうように遊ぶようにすぐ脇をすり抜けて

いく。なつは恐怖が足がすくみ、その場にへなへなと

しゃがみこんでしまった。

 

 老婆のまわりをグルグル回るバイクの群れ、

ひとしきり騒ぐと、リーダーらしい少年の合図で国道へと

走り去っていった。どの子もまだ童顔であるようだった。

 

 

 

 

無事に過ぎた。

 

 ふぅ~~、 なつは息を吐くと、気を取り直し、

先のビルに急いだ。

 

 三階から順に階下へ掃除を済ませ、事務所で雑巾をしごき
ながら、ふと、壁の時計を見ると、午前一時半をさしている。

 

   
   ・・・・・あれ?!

家で目覚めた時、長短の針を逆に見間違えたのである。

 

 しばらく事態が呑み込めず、ぼんやりする なつ。

 

 

 ・・・・・ まだ、真夜中だったんだねぇ、

 

 

道理で、朝方のこれまで、オートバイの群れなんかと出遭う

ことなんかなかったもの・・・

 

 いつものように、仕事をひと通り仕終えると、

曲りかけた腰を、後ろ手でたたきたたき、家路に着く。

 

 

 ・・・・・やれやれ、 まだ ボケたくはないねぇ。

なつは、寝間着に着替えると、もう一度布団に潜りこんだ。

 

 

 そとは まだ   暗い。

 

いちめん の  星。

 

 

 

 

 

   この夏・猛暑と洪水と

 

 

 異常に蒸し暑かったり、降りに降って洪水寸前だったり、

ほんにまぁ、老いたもんには耐へがたき夏ではある。はぁ~、

 

 

 少なくとも週に一回は、母の居る施設にいくことにしている、

いや、いた、  ・・・・と、今夏にかぎり、過去形になって

しまっている。  射すような光の中を外出する勇気がない。

 

 

 昨年までは、仕事も忙しいなか、どんなに暑かろうと、

午後を大分まわってからにする日も多かったにせよ・・・、

 週に一度は 母の顔を見に出掛けた。

 

 電車と地下鉄を乗り継いで、歩く時間も入れたら、往復

三時間余はかかる 道のりである。

 

 夏の盛りのころは、 午後であってもまだ、日はさんさんと

射し、そのなかを よろよろ・・と歩をすすめ、なにぶん暑さに

超・弱い体質である、 冬生まれっす。寒さには強い、いや、

強かった・・・これも たぶんに過去形になりつつある

老いるということは こういうことなのだ、これまで

出来たこと平気だったことが、じょじょに出来なくなる、  

という、 ま いっか、  

それは だれしもそうなんだから、

ぐちぐち 言ったとこで しょうもあらへん!!

 

 で、 地下鉄を降りてから、母のお世話になっている

施設へは 歩いて10~15分は掛かる。わたしの家から

最寄り駅までも 10~15分は掛かる。暑い季節なら歩く

のは何の苦もない、15分どころか、気が向くとあちこち

寄り道や回り道したりするくらいで。

 

 

それが夏場となると、駅から百m先の農協にすら歩くのが

ツライ、   で、 余談ですが、買い物もロクにせず、  

庭の虫くい野菜か、冷蔵庫に買いだめの豆腐か・・・の

メニューばっか、になる。

 

 話、戻して、

 ・・・ふらふら、母の居室に入るやいなや、

バッタリ! ドタン!!  倒れる。

 

 熱中症・予備軍、ぎりぎり状態なんでしょうね、

 

 倒れこんだ中年過ぎの娘(・・わたしのことです)

を 96歳の(今年の春 97になりました)母が 団扇で

あおいだりして看病する。

 

  

 そんな慣例を ことしはサボッてしまっている。

おそらく、今夏は予備軍ではなくて、本格・熱中症に掛かって

しまうだろう、   わたしも、はや、中年過ぎ、

老年になりかけている身である。

 

 施設で倒れて、救急車のお世話になったり、母や

スタッフさんに迷惑かけてしまうのも困る。

 

 

 これ、なかば、言い訳がましい・・・、笑

はぁ~~、今日も 暑い!

 

 
***上記の 「なつさんの仕事」は かっての 母の実話
 にもとづいた掌編をさらにまとめ直した。

2013.08.01 夏の寓話

 

  夏の寓話 

虫と暮らす

 

 

八月に入って 

洪水警報が出たり

雷が光ったり

雨が降りつづいたり


むしむし むし

蒸し暑くて

買い物に出る気力もなく

 

冷蔵庫には 肉 魚のストックなく

庭でちぎった葉っぱ

ばかり 食べている

虫くいの穴だらけの葉っぱ

 

虫との共存暮らしと しゃれこむ

虫くい野菜

特にうまいという味ではない

それでどうやら

お腹のなかに虫が棲みついてしまったようで

好き嫌いのおおい虫で

お腹に落ちてくるものを

善し悪し選別し

あっさり くだしてしまう

薬も要らぬ

 

じょじょに痩せてはいくが

わるいことばかりではない

おかげで か弱い身体でも重い病気にもならず

虫は おりおり ちりちり、ちり、 ちりん、

リズムよく 鳴いて

ひとり言の多かった暮らしを和ませてくれる


にんげん界のことには少々鈍く

むしされることも
虫ずがはしることも減り

自然のことでは ちゃんと虫の知らせを

とどけてくれる

 

テレビを見ながら

 ホラ、見て、  あんな・・・ ワハハハ

笑い声すら増えて

虫とのリズム 秋の夜半にそなえての

レッスンに余念がない

 

周囲では

 あぁ~ ついに・・・

 まだ そんなトシでもないのに

 お気の毒なことで・・・

 

という声も ほら、  ちらほら