流浪する舟は天につきましたか


     肝動注術のこと
      
 夫の肝臓にほんの小さな点が数個あるのが分かり、
しかし除去の手術は不可。

  患部に直接、化学治療剤を流すためのチューブを鎖骨から
動脈に埋め込む「肝動注ポート術」を主治医から勧められた。
不明なことばかりのリスクを考え、いったんは辞退した
ものの、家族の逡巡を押し、本人の意思で決め、
手術がなされた。
 
 多分、数回実施された折りの、抗癌剤治療が辛かったのだ
・・・と思う。それで未知のチューブで直接流す治療法を
取ったのだ・・・と。夫もそれなりに逡巡の末、決めたのだ。

 術後の急変した理由、医学には疎いわたしが可能なかぎり
調べたところでは、手術時の最新型のモニターも無く、時間も
手間取り、何より術後の覚醒が遅れているに関わらず、
放置?!されて、
 じりじり待つ家族には“麻酔の醒めるのが遅れている・・”
という説明だった。

 


    悪い夢を見ているような日々   
  
  夫の体に確定出来ない程の微小の影が映ったとされた
時点では、まったくいつもと変わらず元気いっぱいだったし、
入院してからも抜け出してはあちこち精力的に動き回って
いたのだ。

 手術を軸にして、すべてが急降下していった
(・・・ように思える)。

  泣いている暇もなく、医学書やネットを駆使して調べたり、
医師会に相談したり、病院相手に可能なかぎり奔走もした。が、
所詮、巨塔対個人ひとり、・・・どうにもなるものではなかった。
虚しかった。

  それに夫はもはや、元通りにはなってくれない。


  夫の勤めていた小さな写真工芸社の社長からは、病気が
分かって以後、定年を待たず解雇され、収入も途絶えた。
わたしは仕事を辞めることもならず、合間に生保の申請、
失業保険他の手続きなど遠方の年金事務所にも出向かねば
ならず、

 心身共、疲れはてていた。

 非力、無力感で潰れそうな毎日、病人は刻々、深刻
な状況に落ち重症に、衰弱していくばかりだった。

 病気そのものより、数日間、数か月のうちの激変、その
落差が耐えられない。認められない。が、なにより本人が
苦しいのだ。
本人の苦しみこそ…。想像を超えてしまう。つらかった。


 
       壮絶な闘病

  肝動注術中に血栓が脳の血管に詰まり、
その日から過酷な試練の日々が続く。本来の病変に加え、
視野欠損、手足麻痺、言語、記憶障害など多数の後遺症との
闘い。
 せん妄にも悩まされ、徘徊、看護人たちを殴りつけたり・・・
もあった。

  それでも、持ち前の気力と体力で、薄紙が剥がれるように
持ち直した時期もある。が、再発。
 以降、再発入退院を繰り返し、桜が散りしきった春半ば、

  ついに、力尽きた。



     泣き言は一切口にせず立派でした

 看護するほうは、急変に耐えられず、悪い夢でも
見ているような。
主治医と執刀医も別で、いずれも夫の術後、程なく
移動され居なくなっている。院長交代も然り。

  その後も内科と外科との連携も滞っており、病院への不信
もつのっていた。


 夫逝って、詮無いと承知ながら、悔いと自責が渦巻く。
 
検査などしなかったら、手術しなかったら、別の病院
だったら、あの時、ああしていたら、こうしていたら、
・・・。夜中などわたしの体のなかを、血の涙が逆流する
ようだった。

  


 が、わずかな救いというか、ふしぎなことに、
本人にはいたって、ゆったりした時間がながれていたように
思える。
  
 当時はわたしの勤務も毎日ではなかったし、有休をフルに
使い、保育士の長女、大学生だった次女、三人で連携し、
交代で看た。
 
 最後の一時期を除いては、ずっと食欲も良好、病院食は
残さず平らげ、調子の良いあいだには日に一、二回、
院内の喫茶店へコーヒーを飲みに行くのを楽しみにしていた。
 なにしろ、後遺症のせいもあり、料金を支払わないのが
常で店員さんを不安がらせたようだが、たまに付き添った
次女の、おっとりした姿や仕草を見て、この娘さんの父親
なら大丈夫・・って安心された・・・とか。
 
 普段は陽気で不平もない患者ゆえ、若いナースさんたち
にも親しまれているようだった。

 手術を勧めた医師への信頼も変わらず、恨みや泣き言も
後悔も一度も口にしなかった。立派だった。

 最後の入院は三月から四月。この時は脳の再発ではなく、
肝機能の悪化で衰弱しているようだった。が、車椅子で、
病院前の線路沿いの満開の桜も見ることが出来た。

 長女や次女に父親らしい気遣いの言葉もかけた。いつになく
外の気配に思いを馳せたのか、こんな普通の会話も交わして
いる。

 もう、桜は散ったか??
 
(元気なあいだは体育会系で大雑把で、そんな自然の移り
変わりのことを口にする人ではなかった)

 

  四月半ば過ぎ。
 
 酸素マスクをしているのに、喋って喋って喋りつかれて、

 ちょっと一眠り・・・。それが 最期だった。



   

 ***上記は 4・10ブログ記「天の舟」の続きです。

 前の記でも触れたように、亡き夫のことはブログにもなかなか
書けないできた。
 看取った人なら分かると思うが、どうやっても悔いは残る。
書けば、悔いや愚痴や言い訳になる。

 言い訳はしたくない。
じぶんのいたらなさも悔いも全部、贖罪として、この先も
背負っていくつもりである。
 供養とかの手段などに頼らず、まっすぐこのまま背負っていく。


 ***供養といえば・・・、今年の命日は区切りの年であり、
近々家族打ち揃って、“焼肉”を食べに行こう・・・!(笑)
 夫の大好物で元気だったとき、よくみんなで食べに行った
ものだ。それ以来、わたしは一度も行ってないのだ。

 長女の介護職のおムコさんの休みが不定期で、次女の
おムコさんの電機メーカーの勤務も多忙を極めており、
四月中は無理となり、延期になっているのだけど。  
 

 ***「天の舟」を前編とするなら上記は中編。

 後編に続きます。


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