生きた“跡”を編む

     つねならむ う

 逝ったひとが最期に見た線路沿いの桜が今年も
見事に咲きそして散っていった。
 
 病院から駅までの小道はたちまち葉桜の緑陰となり
通勤や買物の人たちが何事もなく行き交う。
 世間は何も変わってないようで変わっていく。


       ☆ 
 当時、夫の病変が見付かった前後、悪夢のなかに
いるみたいに現実感が乏しかった。
 泣くことも忘れ、術後の急変時にも泣かなかった。
逝って葬儀のときも泣かなかった。身体のどこか

 ひとつぶん空いたままでそこには空も雲も映らない、

 おそらく雨も、風も。



 その後しばらくは事後処理に追われ、片付けや、
古びた家のあちこちも傷んで、台風後の処理にも
と、あれこれ心砕いた。
 それらが一段落すると、ストン、と何かが落ちた
・・・、急速に寂寞が襲ってきた。

 出口のないらせん階段を昇り降りするみたいな
心もとなさ。


  
    

       なにが残ったの?!

 夫逝き、数か月ののち、朝の通勤電車のなか、
天井からぶら下がっている吊り広告が目に付いた。

 写真家の星野道夫さんの写真遺作集の広告だった。

 夫が逝って、何が遺されただろう・・・、

 仕事柄、写真はたくさん撮って、アルバムに残されて
いる。自分はあまり写っておらず、家族や職場の友人たち
ばかり・・・。

 他には野球のバットにグローブ。
無論、妻のようにあれこれ書く習慣など全く無く、
自身の思い出の記録も何もない。

 有名な人には亡くなった後にもこうして遺作集が
遺されるのに、夫には何も・・・。



 
 
 ・・・そうだ!  わたしが作ればいいんだわ・・!!




   
        特集号
 
 数年休んだままでいた個人詩誌。
夫の追悼・特集にして作ろう・・・!!

 思い付いたまではいいが、予想以上に大変な辛い作業
で遅々として進まず。
 何度も心折れそうになりながら、・・これがわたしの
“仕事”。わたしに出来るのは“書く”ことしかない・・!!
 と言い聞かせ、踏ん張った。

 完成するまで数か月も要し、季節も夏に近付いていた。
 夫の誕生日は七月。それに間に合わせよう・・・。

 さいわい、編集仕事・印刷など、夫の元同僚諸氏の
応援の快諾を頂き、ともども産みの苦しみの果てに、
どうにか制作成った。

 夫の好んでいた背番号3.数字の3。ちょうど、
十三号となったこと。長年従事してきた技術の写真印刷
を盛り込んでの追悼号に出来たこと。また親しかった
友人諸氏の助けを借りられたことなどなど、亡きひとの
視えない力が及んでいることに気付かされたりした。

 注文の多い依頼を受け、何度も何度も作り直して
くださったkS氏や、相談、印刷を引き受けて
くださったkk氏ご夫妻には感謝している。

 

 屋台骨をなくし漂流する難破船・**丸の行方を案じ、
何かと力になってくれた老母や二人の姉たち、そして
控えめにささえてくれた誌友たちに感謝しつつ、
 追悼号は作られた。

 

 ***ちなみに、十三号以外は従来通り、一人の
手作り詩誌である。




 
 追悼・特集号は本屋さんに並ぶような製作本には
程遠い、まことに素朴な造りではある。
   
 
 わたしの知る、聞いているかぎりの夫の幼少期から。

 父親を早くに亡くし、小学三年の時から新聞配達をし、
母親の行商を手伝い、小間物を背負って売りに歩いたこと、
貧しく厳しい暮らしながら、生来楽天的な明るさで
悪戯好きでヤンチャな野球少年。毎日真っ黒になりながら、
楽しく走り回った時代のことなど、綴り、織り込んだ。

 就職してからは職場の仲間を巻き込んで、野球部を設立。
ピッチャーで4番バッターとし、長く草野球戦に興じ、
活躍したこと。

 病変後、壮絶な闘病を送りながら、長女の挙式(参列は
叶わなかったが)や次女の大学卒業を見届け、
 
 終焉を迎えるまで・・・。
 

 綴り、編み込んでいった。
 

 
 特集号は亡きひとのゆかりの友人・同僚・縁者に送った。

 
 
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