壁の話


もう何年か前のことである
病後をかこつ人に付き添って
郊外にある大学病院に向かった
車を使わなければJRと私鉄 バス
と いくつも乗り継いでいかねばならない

その日 循環器科の待合室はすでに人でいっぱいだった
どの科の待合室も廊下も受付も 人で溢れていた
広大な敷地の木々やベンチや 車寄せの石畳に
午前の光が万遍なく降りそそいでいた

順番を待つあいだ 誰も口をきかず
長椅子の隅でなすこともなく ふと目の前の壁を見る
光沢ある白い色に 黒に近い影のような模様が
大振りに入っている
それを見るともなし見ていて おもわず
目を凝らした

そこには
黒いハット 鉤鼻 黒マントの両腕を広げた
巨大な姿が
こちらに向かって 立ちはだかっている
ここは病院の待合室の壁 そんな不吉な絵が
ある筈はない
ひとしれず自分の頭を振り 再び目を凝らす
サタンだ
どう見ても それはサタンだ

隣に座る人には言えないままだった
白い巨塔とも呼ばれる病院のことだ
嘘のようなこともあるかもしれない
深夜 閉じられ誰も居ない待合室や廊下を
大きな影が 黒マントを広げ
ノッシ ノッシノッシ・・・・


 

   思い出の品の入った函

  押入れ内のボード棚の奥に、古びた函が
蔵ってある。
“両口屋是清の千成り”の菓子箱である。

 ちょうど封書などがすっぽり入る大きさだ。
山尾三省氏の葉書やお世話になった先輩方から
の手紙類など。テレフォンカードとか不要なモノ
も紛れこんでいる。
その中に、夫の最初の手術を執刀された
大学病院のM教授からの封書が見付かった。

 当時、手術を前にしてのカンファレンスに
出向いた時、夫は四十代半ばの頃、
 長女は高校受験期、下の子はまだ小学生だった。

 住宅ローンに加え、夫の母への仕送りもあって、
生活は楽ではなく、妻のわたしは銀行への再就職を
はたし勤務生活に入ったところだった。




    カンファレンスの日

  会議室でいっとき、病状と手術の詳細の説明
を受け、では宜しくお願いします・・と教授に
向かって、深く礼をし席を立とうとしたところ
へ、教授はわたしに向かって近付いてこられ、
 「これは、返しておきます・・・」
 と、封筒を出された。

  教授から返された封筒には、紙幣が数枚か入って
いた。


 何も聞いておらず、何も知らない妻に夫が後で
話すには、

 すでに手術を受けた患者さんたちから、
「執刀医の教授には事前になにがしかのお礼を
するのだ・・・」と聞かされたという。

 相場は我が家のほぼ一か月ぶんの家計に相当
する額だ。

 後年、じぶんの至らなさを処したくなるのは、
こんな時である。

 

  本来なら付き添う妻のほうが察知して用意する
のではないか・・・。

 わたしは世事や俗事には、一面すこぶる無知で
疎いところがある。そして頑迷でもある。
 納得しがたいことには従順できない。それを
知る夫は、相談することなくひとりで用意した
のだ。
 

  夫が用意した封筒には相場の半分の枚数が
入れられていた。それが精いっぱいだったろう。



 本やドラマでは見慣れたことでも、現実にその
ようなことが罷り通っているなど、考えも及んで
いなかった。
 もし、そんな事実を知らされたとして・・・、
手術を受けるのが自分の場合だったら、迷わず
無視、或いはは拒否するだろう。
 しかし、夫の命にかかわる手術になるとしたら
・・・、どうしただろう。

 現在のわたしなら、可能なかぎり教授に会って、
真意を確かめる。そのうえで判断する。

 
   
       無事経過

 手術を無事終えて、少し経過したころ、わたし
はM教授に宛てて、手紙をしたためた。

 何を書いたのか、もう忘れてしまったが、
お礼とともに、心の裡(うち)をそのまま
まっすぐ書いて送ったのだ、と思う。

 循環器科の権威で、テレビにも出演されたり
する著名な教授である。

 その教授から封書で手書きの返事が届いた。
・・・経過を見守り、無理せずに・・・
看護する家族へのエールであるとの思いで、
心して受け取った。

 
 その折りの手術は、教授の説明のかぎりでは、
悪性ではなく、「血管腫の除去」と聞いた。
 ただ、病変について、「・・・六十○歳くらい
にヤマが来る・・・」と言われた。


 その後、夫は定期的な検査と投薬を律儀に
守りながらであったが、元通り体育会系に戻り、
好きな草野球に興じ、母や姉家族・中高年旅行
や夫婦での旅にあちこち精力的に駆け回って
楽しんだ。

  その元気な日々に、わたしは(夫には話して
いない)・・いつか来る“ヤマ”・・のことを
すっかり忘れてしまっていた(いや、考えない・・
ようにしていただけかもしれない)。


 教授の予想の年齢より、 五年早く、
夫は別の病院での手術禍で、命を失った。

 

 ***執刀医への当時の御礼に関しては、
現在のことではありません。そして、家人が
聞いた件のことなども事実であったのかどうか、
未確認です。
念のため***


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